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偉人の生涯と功績

渋沢栄一とは何をした人?生涯や功績をわかりやすく解説!

偉人の生涯と功績

新一万円札の顔として注目される渋沢栄一」。

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公としても話題を呼んでいます。

この「渋沢栄一」ですが、一体何をした人でどのような功績を残したのでしょうか?

この記事では「渋沢栄一とは」をテーマに、渋沢栄一の生涯や功績を振り返ります。

渋沢栄一とは

まず「渋沢栄一とは」についてご紹介します。

渋沢栄一とは日本の資本主義を育てた経済界の巨人であり、明治から大正時代にかけての偉大な実業家です。生涯で500以上の株式会社設立に関わるなど、非常に大きな功績を残しています。

この渋沢栄一ですが「私利を追わず公益を図る」という考えを持って企業経営を行い、早くから起業の社会的責任を訴えていました。その影響力は経営の神様であるピーター・ドラッカーにまで及び、ドラッガーは渋沢栄一のことを「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」と評しています。

その偉大な功績と社会的影響力から、まさに「1万円札の顔」にふさわしい人物といえるでしょう。

渋沢栄一の生涯と功績

ここからは渋沢栄一の生涯を振り返り、その功績についてご紹介していきたいと思います。

渋沢栄一の少年期・青年期

渋沢栄一は、1840年(天保11年)に現埼玉県深谷市血洗島村の長男として生まれます。

当時の渋沢家は植物である藍(あい)の葉を発酵・熟成させた染料「藍玉」の製造と販売を行っていました。それだけでなく米や麦、野菜の生産も手掛け農業を通じた商売も行っており、地域の豪商として名を馳せていました。

そのような商人家系で育ち、渋沢家が行う商売を幼少期から手伝った渋沢栄一は商売人として才覚を磨いていきます。

 

このまま商売人としての道を歩むかに見えた渋沢栄一ですが、青年時に転換期を迎えます。

渋沢栄一の青年時代といえば幕末。まさに動乱の世の中でした。

そのような時代背景に触発された渋沢栄一は、1861年(文久元年)に血洗島村を出て江戸に向かいます。江戸に出た渋沢栄一は、北辰一刀流の道場に入門して剣術修行に励みます。なお、この北辰一刀流ですが、幕末の剣豪「千葉周作」が創始した剣術の流派で、幕末の志士「坂本龍馬」も学んだ剣術です。

渋沢栄一は剣術修行を通じて心身共に鍛え、その傍ら尊皇攘夷論を掲げる勤皇志士たちと交流を深めています。

尊王攘夷論に傾倒した渋沢栄一は、江戸から京都に移り、勤皇派として尊王攘夷運動を行います。ただし、その活動も1863年(文久3年)に起きた尊皇攘夷派を京都から追放した政変「八月十八日の政変」以降勢いを失い行き詰まります。結局は江戸滞在時に交流があった一橋家の家臣を頼って、次期将軍の徳川慶喜こと「一橋慶喜」に仕えることになります。

 

一橋家に使え、主君の一橋慶喜が江戸幕府第15代将軍となったことに伴い幕臣となった渋沢栄一。

ここで幕臣となった渋沢栄一に再び転換期が起こります。

それは幕臣として、1867年にフランスで行われた万国博覧会への参加したこと。この万国博覧会への参加を通じて、渋沢栄一は西洋諸国の技術力の高さなどを目で見て大きな衝撃を受けます。また、この渡航を通じて渋沢栄一は西洋諸国の株式会社の仕組みを学び、深く感銘を受けたとされています。

大きな衝撃と感銘を受けて日本へ帰国した渋沢栄一ですが、既に江戸幕府は倒幕されており、主君の徳川慶喜も謹慎の身にありました。

行き場を失った渋沢栄一は、自分の道を歩むことを決心します。ここから渋沢栄一の実業家としての歩みが始まります。

渋沢栄一の壮年期と晩年

実業家として歩み始めた渋沢栄一ですが、まず初めに1869年(明治2年)1月に静岡で、静岡藩を巻き込んで「商法会所」設立します。商法公社とは金融商社のことです。

渋沢栄一は官民合同の出資を募り、商法会所を通じて米穀や茶、蚕糸の買入れ販売といった商業務と金融業務を行うことを企画しました。

官民合同の出資を募って設立された商法公社は「株式会社」としての性格を有しています。後に渋沢栄一は、この商法会所を「合本組織の会社ができたはじまりであると思う」と述べています。

日本最初の株式会社は、運営も順調に進み、利益を出すことにも成功します。

 

その後、渋沢栄一は大隈重信に説得されて大蔵省に入省することとなりますが、予算編成を巡って政府と意見が対立し、1873年(明治6年)に大蔵省を退官。1875年(明治8年)には、現在の一橋大学の源流である商法講習所(商業学校)を設立します。

退官後間もなく、大蔵省在籍時に設立を指導していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以降は実業界に身を置きます。

その後も渋沢栄一の活動は留まることをしらず、多くの企業の設立に関与します。

東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、帝国ホテル、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど現在の大企業の設立にも深く関わっており、渋沢は生涯で500を超える株式会社の設立に関与します。


大きな功績を残した渋沢栄一は1916年(大正5年)に実業界を引退し,以後は東京商科大学など教育機関の創設や社会事業に尽力しました。

 

1931年(昭和6年)11月11日に92歳で生涯を閉じています。

渋沢栄一の功績

渋沢栄一の功績ですが、数多くの株式会社を設立して日本近代資本主義の礎を築いたことがあげられます。

先ほどもご紹介しましたが、渋沢栄一は東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、帝国ホテル、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど現在の大企業の設立に複数関わっています。

関わった株式会社の数でいえば500社を超えるわけですから、その功績は計り知れません。

 

また数多くの株式会社の設立と同時に、企業の社会的責任を早くから明示していたことも渋沢栄一の大きな功績といえます。

渋沢栄一の実業家としての特徴の一つとして、明治の有名な経済人と大きく異なる点は『財閥』を作らなかったことがあげられます。

当時は三井財閥・三井高福、三菱財閥・岩崎弥太郎、安田財閥・安田善次郎、住友財閥・住友友純など財閥を作り、市場を独占することが企業活動の主流でした。そのなかにおいて渋沢栄一は、早くから起業の社会的責任を掲げ「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通して企業経営を行っています。

後に企業の社会的責任が問われる社会が来るわけですから、渋沢栄一の経営手法は先見性のある取り組みといえます。

 

以上、この記事では「渋沢栄一とは」をテーマに、渋沢栄一の生涯や功績を振り返りました。

ご紹介した内容が少しでもご参考になれば幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。