このサイトは、ビジネスや社会保障など社会全般に関する情報をブログとして発信しています!
greatman

ガリレオ・ガリレイの功績と生涯|望遠鏡による天体観測など世界を変えた偉人

greatman

重い物体も軽い物体も、同時に落とすと、同時に地面に到達します。

ガリレオ・ガリレイが提唱した「落体の法則」。

この法則を提唱する以前の16世紀頃はアリストテレスが提唱した、物体の落下速度は物体の重さに比例するという説が信じられていました。

この説を覆したのが、ガリレオ・ガリレイです。
科学者として世界を変えたガリレオ・ガリレイについて特集します。

ガリレオ・ガリレイの生涯

ガリレオ・ガリレイは1564年にイタリアのトスカーナ地方ピサで、ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子として生まれます。

父のヴィンチェンツォは音楽家で呉服商も営んでいた人物です。またヴィンチェンツォは音響学の研究を行っており、数的な記述・分析を重視する手法を用いることを重視していました。これが後に息子ガリレオが運動研究で重視した数的な手法に影響を与えることになったと指摘されています。

1581年にガリレオはピサ大学に入学しますが、1585年に退学してしまいます。ガリレオを大学から遠ざけた原因のひとつに、数学者オスティリオ・リッチとの出会いがあります。

ピサ大学在学中の1582年頃から数学者リッチからユークリッドやアルキメデスを学びます。その結果、大学を退学した翌年の1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表します。その論文が評価され、1589年にはピサ大学の教授の地位を得て、数学を教え始めます。

その後、1592年にパドヴァ大学で教授の職を得て、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えます。この時期、ガリレオは「落体の法則」や「地動説」など多くの画期的発見や改良を成し遂げています。

輝かしい功績を残したガリレオでしたが、晩年は苦境を味わいます。当時の時代背景は中世イタリアの権力者たちの権力争いが激化していました。ガリレオもその渦に巻き込まれてしまいます。

学問においては天才的な才覚を発揮しながら、政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは、権力者達と馬が合わず、次第に敵を増やす形になってしまいます。そして、ガリレオのことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実に異端審問で追及されるまで追い込まれ、職を失ってしまいます。

軟禁状態での生活を送ることになったガリレオ。

職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは次第に病気がちになります。そこに、追い打ちをかけるようにガリレオを看病していた最愛の長女ヴィルジニアを1634年に病気で失います。さらにガリレオは1637~1638年頃には失明をしてしまいます。

そうした困難な状況においてもガリレオは弁論や論評などで成果を残し、1642年に没します。

ガリレオ・ガリレイの功績

ガリレオ・ガリレイの功績には「落体の法則」の発見、「地動説」の確立などがあげられ、科学革命を先導しました。実験を重視し、そこから得られたデータを元に客観的に分析するという実証的な手法を用いて科学の地位を確立しました。

「落体の法則」の発見

ガリレオはピサの斜塔の上から、同じ大きさの鉄の球と木の球を同時に落とす実験を行い、どちらの球も同時に地面に到達することを証明したといわれています。

ガリレオは落下現象を詳しく調べようとしましたが、高精度カメラのない当時では、落下物の速さは速すぎて、調べることができません。

そこで、滑らかな斜面をつくって、そこに鉄の球を転がして球の落下距離と落下速度の関係を調べました。斜面を転がるときのほうが、落下しているときよりも、ゆっくり球が動くので調べやすかったからです。

しかも、ガリレオはこの実験を行うにあたって、球を斜面で転がすことと、自然落下させることは同じであることもきちんと証明しました。もしも同じでなければ、実験の意味がなくなるからです。

こうしてガリレオは、「落下距離は落下時間の二乗に比例する」という結論を導き出しました。

「地動説」の確立

ガリレイといえば、地動説を唱えたことで有名です。

当時は、キリスト教の世界観が広く信じられていた時代で、あくまでも地球が世界の中心であり、太陽も月も星々も地球を中心として回っていると考えられていました。

ガリレオよりも100年ほど前に生まれたポーランドの天文学者コペルニクスは、肉眼で天体の動きを観測し、1507年頃、「地球は太陽の周りを回っている」とする地動説を発表しました。この考え方は当時の社会に広まり、大きな議論を巻き起こしました。コペルニクスの地動説が広まったのは、グーテンベルクにより印刷に改良を加えた活版印刷技術の発明されて以来、普及していった印刷物というメディアによるところが大きいといわれています。

当時は、論理に論理を重ねて抽象論の極みにまで達していたキリスト教的な世界観に、不満を持つ人々が増えていました。そのため、古い天動説をひっくり返すコペルニクスの地動説は、当時の人々に共感をもって受け入れられたのです。

その後、地動説派のドイツの天文学者ケプラーは、惑星の動きを詳しく観察して、惑星の運動に一定の法則があることを見つけました。これを「ケプラーの法則」といいます。

ケプラーの法則とは「惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く」「太陽と惑星を結ぶ直線は、等しい時間に等しい面積を描く」「惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する」という理論です。これは、太陽の周りを地球が回っていると考えると、ぴったりと当てはまる法則です。

地動説を否定する学者たちは、「地球が動いているのなら、塔の上から石を落としても、真下には落ちないはずだ」と言いました。地球が東に動いているなら、落とした石は、西側にずれて落ちるはずだというのです。

このような反論に対してガリレオは、走っている船のマストの上から物を落とすと、マストの真下に落ちる。だから、地球が動いていても、塔の上から落とした石は、真下に落ちるのだと反論しました。これを「ガリレオの相対性」と呼び、後のアインシュタインが提唱した相対性理論につながります。

そのような研究のなかで、ガリレオの地動説を決定的にしたのが天体望遠鏡の登場です。望遠鏡は、1608年頃に、オランダのレンズ技師リッペルスハイによって発明されたといわれています。

ガリレイはいち早くこの技術を取り入れ、1609年に自ら望遠鏡を作り上げました。対物レンズに凸レンズ、接眼レンズに凹レンズを使った望遠鏡で、現在の小型の双眼鏡くらいの性能です。この望遠鏡は、肉眼だけでは見ることができない天体の姿をガリレオに見せました。

望遠鏡を使い、ガリレオは月面に凹凸、そして黒い部分クレーター(当時ガリレオは海と考えた)があることを発見します。また翌年の1610年には木星の衛星を3つ発見します。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれています。

この観測結果は1610年3月に『星界の使者』として論文発表されました。木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであったため、大きな論争を呼びます。その結果、ガリレオは世界的な名声を得ることになります。

ガリレオは、太陽表面の黒点の位置の変化から太陽が自転していること、木星の衛星が木星の周りを回っていることなどを発見し、地動説の正しさを世に示しました。

科学革命を先導

ガリレオは、科学革命の中心人物とされています。

科学革命以前も科学と言われるものが存在していなかったわけではないが、それは錬金術のようなことからおこった即物的な技法や、せいぜいアリストテレス的な自然をそのまま観察して理屈を導く出すことに留まり、カトリック教会の超自然的な世界観を克服することは出来ませんでした。

そのような中で17世紀を迎え、望遠鏡、顕微鏡などの用具の発明に伴う観察・実験という方法論の精密さが実現したこと、数学が自然現象の理論付けに用いられるようになったことで科学は飛躍的な進歩を遂げ、地位を確立します。

その革命の先駆的な役割を果たしたのがガリレオ・ガリレイです。

ガリレオは民衆に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとりました。その結果、中世的な考えからの脱却と科学的・数学的研究方法の確立を果たし、大きな社会的影響をもたらす科学理論を構築します。

世界を変えたガリレオ・ガリレイ

ガリレオ・ガリレオが提唱した「落体の法則」や「地動説」は従来の考えを覆す画期的な内容です。

また研究のために、実験を重視し、そこから得られたデータを元に客観的に分析するという実証的な手法は科学革命を起こし、科学の地位を確立しました。

まさに世界を変えた偉大な人物と言えます。